乾杯とさよなら

酒とご飯、天満の嵐

薄暗い凪のような心で、人生を浪費している

28になったばかりの夏だから、つい先日のことだ。行きつけの珈琲屋のスタッフに「尾崎さんは1人だと、おばあちゃんみたいな佇まいで、いい感じですね」と、褒められ、私は「余生だからね」と返した。彼は気さくに「またまたぁ」と、声を上げて笑った。それから、なんとなく、この「余生」という言葉が私についてまわっている。

 

よ‐せい【余生】
盛りの時期を過ぎた残りの生涯。残された人生。「静かに余生を送る」「余生を楽しむ」

デジタル大辞泉より

 

さて、 28歳の私の履歴書には、ぽっかりと空白の期間があって、そこで何をしていたかと言われれば、何もしていない。箱型の真っ白い部屋で鳥を眺めたり、泣いたり、本をよんだり、お酒を飲んで薬を飲んで眠り続け、よっこらせと、這いずるようにして起き上がったのが、今の私である。

病院の先生は、私が転んでおきあがれなくなってしまった理由を、例えば幼少期の思い出だとか、ADHD発達障害特有の生き辛さとか、音や刺激に対する過敏さとか、様々な理由をつけたけど、理由はともあれ24歳の私は盛大に人生で転倒した。そして、大転倒の末、一番欲しかったものを手放した。

 

思えば、起き上がれなくなったあのときに、神様の手が首に巻きついたことが何回かあったけれど、そのうちの一度だけ私の心を神様が掬い上げてくれた。あのとき死んでいれば幸福だった、と思うことがある。

 

28になって、住む場所も変わり、少し欲が出てきて、友人だとか行きつけの店とかそういったものを少なからず手にすることができた。そうするとどんどん欲しくなり、恋人が欲しいだの、女性の友人を増やしたいだの、どんどんどんどん欲しいものが増えていく。

一方で、疎ましくなった家族を遂に手放した。幼少期の思い出も、十代の怒りも忘れてしまおう。優しい妹がいるけれど、いずれ彼女もも遠くに行けば、きっと心も離れるだろう。

本当に恋人が欲しいのか、友人を自分の側に置いておきたいのかすらわからない。思ったよりも親しい人たちが増えてしまったことに動揺さえしている。それでもこの先永遠に、心は孤独かもしれないし、家族を持つこともないのかもしれない。私は、心が凪のように、静まるのを静かに待ちたいと思う。

 

あの一瞬の幸福の中で死に損ねたので、ただひたすら余生を浪費しています。どうか、私の心を荒らさないでほしい。あと、50年弱もある私の人生が薄暗い凪のように、静かに続いていきますように。